敗れざる者たち GMOに500億円の誘惑―「あなた、年を越せないよ」

 「え? なんでそうなるの」

 GMOインターネット社長の熊谷正寿は一瞬、自分の耳を疑った。監査法人から連絡が入ったのは2006年秋のこと。「過払い金の請求に備えて引当金を積むように」。驚いたのは引き当ての期間。過去10年分にさかのぼって計上せよという。金額はざっと300億円あまり。さもなければ決算は認められない。熊谷の人生が暗転した瞬間だ。

 原因は05年8月に270億円で買収したオリエント信販だった。熊谷にとってみれば満を持しての金融業参入の第一歩だった。だが、翌年1月に事態が急変する。利息制限法の上限金利を超える「グレーゾーン金利」について、最高裁が実質的に業者側に返還を求める判決を下した。

 いわゆる「シティズ判決」は信販業界に激震を起こした。ルール変更の直前に参入したGMOも例外ではない。引当金を積んだ結果、買収直前の05年6月期に49.6%あった自己資本比率は0.5%にまで急降下し、GMOは突然、経営危機に追い込まれたのだ。

 ネットのインフラ事業で手堅く稼いでいたGMOがなぜ金融に手を出したのか――。そこには熊谷を駆り立てた「空白の1年間」の存在があった。

 1999年8月、ジャスダック市場に独立系ネット企業として初めて上場したGMOは順調に業績を伸ばし、05年6月には東証1部への上場を果たす。だが、審査に要した約1年の間は新しい手が打てない。「両手両足を縛られている感覚でした」。熊谷はこう振り返る。

 その間、日本のネット業界では異端児が暴れていた。ライブドアを率いる堀江貴文である。熊谷が東証に1部上場を申請したころ、近鉄球団やフジテレビの買収を巡って連日のようにメディアに追われる存在に。熊谷は有名人になることに興味はなかったが、「ホリエモン」の宣伝効果でライブドアのメディア事業は目に見えて急成長していた。

 さらにサイバーエージェントが鳴かず飛ばずだったメディア事業を急成長させていた。社長の藤田晋は堀江とともに熊谷が早くから目をかけていたいわば「弟分」。そんな彼らがネットを舞台に名を挙げている。

 動けない熊谷はその間、じっとばん回の手段を考え続けていた。「映像か金融か」。熊谷が取ったのは金融。その選択が凶と出たのだった。

 熊谷は己の才覚ひとつで成功した、たたき上げの人間だ。生まれは事業家の家系。父親も満州からの引き揚げ後に汁粉屋から身を起こし、映画館やパチンコ店などで成功した。熊谷は17歳で高校を中退し、父が経営するパチンコ店で働く。出玉を調整するいわゆるクギ師。熊谷は当時の道具を今も大切に持っている。

 マネジャーとしてその店を繁盛店にすると上京する。だが給料は安く、傾いた団地で暮らした。90年代に入りNTTが提供していた「ダイヤルQ2」に使う機器を自作して独立するが、ブームは続かなかった。

 そんな時に出会ったのがインターネットだった。秋葉原で米国のサイトと接続するデモを見たとき「なんとも言えない衝撃を受けた」と言う。そこからネット事業を軌道に乗せた熊谷が直面したピンチだった。

 GMOは2年連続で最終赤字に転落。20代から持ち歩いている手帳には毎日「弱気にならない。諦めない」と書いたが、追い込まれていく。そんなある日、一家で練炭自殺する夢を見る。「ここまでか」。そんな考えも頭をよぎり始めた2007年末、甘い誘惑がやってきた。

 「500億円でGMOを売りませんか」。ある米系証券会社からの提案だった。大金を手にハワイで余生を過ごせばどうかと言う。

 熊谷は思わず目の前のテーブルを持ち上げ、ひっくり返していた。実はこの証券会社には再生の助言を依頼していたのだ。「こっちは助けてくれって言ってるのに、あんまりじゃないですか!」。普段はつとめて感情を表に出さない熊谷が、怒声を発していた。

 その年の暮れ。熊谷は六本木のカラオケ店に呼び出された。証券会社の幹部たちの忘年会だった。再び買収の話を持ちかける幹部。熊谷の肩を抱いてそっとささやいた。

 「熊谷さん。私の経験だと7~8割がた、あなたは年を越せないよ」

 マイクを持つ別の女性幹部の歌声が嫌でも耳に入ってくる。曲はアン・ルイスの「六本木心中」。もちろん彼らには熊谷と心中する気などなかった。

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